「キリストを知ることのすばらしさ」
――ピリピ人への手紙3章より――
はじめに
パウロはピリピ人への手紙3章で、「キリストを知っていることのすばらしさ」を、力強く、そして個人的な体験として語ります。それは単なる知識ではなく、人生の価値基準そのものを変えてしまうほどの出会いでした。
この章は、何を誇りとして生きるのか、どこに希望を置いて歩むのかを、私たち一人ひとりに問いかけています。
肉に頼る生き方からの転換(3:2–9)
パウロはまず、「犬どもに気をつけなさい」(ピリピ3:2)と非常に強い表現で警告します。ここで語られているのは、神との関係を自分の行いや実績で保証しようとする生き方です。
パウロ自身は、
- 生まれて八日目の割礼
- イスラエル民族、ベニヤミン族
- 律法に熱心なパリサイ人
という、当時誇りとされる条件をすべて備えていました(ピリピ3:5–6)。
しかし彼は言います。
「しかし、私にとって得であったこのようなすべてのものを、私はキリストのゆえに損と思うようになりました。」(ピリピ3:7)
それどころか、
「私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、私はすべてを損と思っています。」(ピリピ3:8)
ここでパウロが語る「知る」とは、情報として知ることではなく、人格的な交わりの中でキリストを知ることです。
彼は、自分の義ではなく、「信仰に基づいて神から与えられる義」(ピリピ3:9)に生きる者へと変えられました。
復活の力と苦しみにあずかる歩み(3:10–11)
パウロの願いは明確です。
「私は、キリストとその復活の力を知り、キリストの苦難にもあずかって…復活に達したいのです。」(ピリピ3:10–11)
復活の力を知ることは、楽な人生を約束するものではありません。
むしろ、キリストの歩まれた自己無化と犠牲の道に連なる生き方です。
それでもパウロは、その道こそが真の命へ至る道であることを知っていました。
捕らえられた者として、前に向かって進む (3:12–14)
パウロは、自分がすでに完全に達したとは考えていません。
「ただ捕らえようとして追い求めているのです。キリスト・イエスが私を捕えてくださったからです。」(ピリピ3:12)
キリストを追い求める前に、すでにキリストに捕らえられている。
この確信があるからこそ、パウロは、
「うしろのものを忘れ、前のものに向かって身を伸ばし」(ピリピ3:13) と語ることができました。
信仰の歩みは競争ではなく、恵みへの応答としての前進なのです。
私たちの国籍は天にある(3:20–21)
ピリピの人々は、ローマ市民であることに誇りを持っていました。その彼らに対してパウロはこう宣言します。
「しかし、私たちの国籍は天にあります。」(ピリピ3:20)
この世の価値観や成功がすべてではありません。
やがてキリストは、
「私たちの卑しいからだを、ご自分の栄光に輝くからだと同じ姿に変えてくださいます。」(ピリピ3:21)
この希望があるからこそ、私たちは地上での歩みを、希望をもって続けることができるのです。
2.私たちへの導き
ピリピ3章は、現代を生きる私たちにも問いかけます。
- 私は何を誇りとして生きているだろうか
- 安心の根拠を、実績や評価に置いていないだろうか
- 「キリストを知ることのすばらしさ」を、日々の生活の中で味わっているだろうか
信仰生活とは、何かを積み上げて神に近づくことではありません。
すでにキリストに捕らえられている者として、恵みに応答して歩むことです。
失敗や弱さがあっても、後ろを振り返り続ける必要はありません。
キリストが前におられ、私たちを招いてくださっているからです。
3.祈り
主よ。
私の主であるイエス・キリストを知っていることのすばらしさを、
改めて心に刻むことができますように。
自分の力や正しさに頼る生き方から解放し、
あなたから与えられる義に生きる者としてください。
すでにキリストに捕らえられている者として、
後ろのものを忘れ、前に向かって歩む力をお与えください。
この世の価値観に流されるのではなく、
天の国籍を持つ者として、
希望をもって今日を生きることができますように。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。
アーメン。
ひとりでも多くの方が、主イエス・キリストの真実の愛にふれ永遠の国籍(聖霊の御霊)を授かることが出来ますように シャローム。
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